SMと癒し

SMのセッション後、「すっきりしたー。」とM女に言われた。
責められている時は、大泣きして、つらい。
でもプレイのあとは気分が晴れるという。

泣いたから気分が晴れるとか、性感帯への刺激で気持ちよくなる、ということもあるだろうけれど、叩かれるだけのディシプリン・スパンキングを受けた人もそう言う。

SMは癒しと赦しの物語だからね。

悪いことをしたらお仕置きをたっぷり受けて、
「よくがんばったね」って許してもらう。
こどもの物語は、おとなにも有効だ。

生きていると、心に澱が溜まっていく。
一つ一つは記憶に残らないほどの小さなものかもしれない。
相手に心ないことを言ってしまった、ご飯を残してしまった、ゴミを拾わなかった。
小さなことでも、何となく心苦しくなる。
どこかで自分は罰を受けなければならないと思う。
その人が繊細で自罰的な人間であればあるほどその欲求は強い。
M女はふつう、自罰的だ。

S(というより、攻撃性の高い人)は、問題があると「どうしてくれるんだよ」と他人を責める。
Mは「ごめんなさい」と自分を責める。
その謙虚さは人間的にはまともだけれど、生きづらいだろうなあと思う。

SMはこの、溜まった罪の意識を祓うのにぴったりなのだ。
ご主人様に言われるがままに罰を受ける。
強い痛みであればあるほど、大きな代償を支払ったことになる。
最後にご主人様に赦される。
M女の心は軽くなり、癒される。

この癒しのストーリーは、免罪符、懺悔、エクソシスト、憑物落とし、悪魔祓いなどでも同じような構造を持つ。
どれも、目に見えないものを見える形にし(可視化)、それを鎮める(対価を払う、調伏する)ことで人の精神の安定を図る。すなわち、癒される。

・免罪符
犯した罪を金銭によって償う。神によって赦され、ちゃりんと音がすれば天国への道が開く。
・懺悔
自分の罪を言語化する。神への告白によって、神から赦される。
・エクソシスト 憑物落とし
怪奇現象を何らかの形で具象化し、それを鎮める儀礼を執り行う。
悪魔の乗り移った人間に聖水を振り掛け、悪魔を追い出させる。
京極夏彦の京極堂シリーズでは、不可解な殺人事件を妖怪によるものとして認識させ、その妖怪を祓うことで事件を解決する憑物落としを描いている。(*1)
・悪魔祓い
スリランカの特定地区では、うつ病のようになった患者が悪魔祓いの儀式で治るという。(*2)
ドラムの激しいリズム、踊り、香の匂い、火のついたトーチなど、五感を通じて悪魔が鮮やかにイメージ化される。そしてイメージ化された悪魔が、現地の神話的コスモロジーの頂点に立つブッダの力により、患者から出ていく物語が実演される。
悪魔祓いの三ヵ月後に、24人の患者のうち18人は心身の不調が治り、問題は解決したと答えたという。

絶対的な悪というものはない。
あなたの感じている罪は、あなたの規範意識からくる幻想だ。
規範意識は、あなたを取り巻く環境(社会や文化)の結果である。
社会や文化というのは、我々が日常で生きる、大きな物語である。
物語によって受けた傷は物語によって癒される。

ご主人様という絶対者に罪を告白し、罰せられ、赦されるという物語。
赦してもらう相手は、自分より立場が上であるほどいい。
あたりまえだ。
部下に「部長のミス、大目に見てやりますヨ。」と言われたら張り倒すだろう。

奴隷とご主人様の関係は、一神教における人類と神の関係だ。
これ以上ない上下関係だろう。

さあ、ご主人様に泣くほど責めてもらおう。
きっとあなたは癒される。

「ごしゅじんさま、おゆるしください・・・」
「だめー。お尻下がってるよ。お仕置き追加。」
「ひぎぃ!」
というやりとりの裏には癒しのストーリーがあるのだよ。
M女のみなさん、安心して苦しみたまえ。


(*1) 姑獲鳥の夏、魍魎の匣、狂骨の夢 など (講談社文庫) 京極 夏彦  
(*2) スリランカの悪魔祓い (講談社文庫) 上田紀行 

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